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阿弥陀如来をご本尊とする大雲寺は、永禄年中(1558年〜1570年)唐沢山城主佐野昌綱を開基に、開山に真蓮社天譽上人を迎え開創された。創建の地は唐沢山麓の館野であった。
この時代は群雄割拠の戦乱の世で、西からは上越の山々を越えて上杉謙信が、南からは利根川を渡って小田原の北条氏が、虎視眈々と北関東へと蝕手をのばしていた。
上杉謙信が佐野城(唐沢山城)を初めて攻撃したのが永禄4年(1561年)で、北条氏の圧迫によって上杉勢が唐沢山城から撤退するのは永禄12年(1569年)である。
当山が創建されたのは、佐野氏にとって危急存亡な時代であったとも言える。それ故にこそ昌綱は、明日をも知れぬ身を”御仏”(阿弥陀如来)にすがり、来世は極楽に往生するのを願い、当山を建立したのであろう。
戦乱の世も終わりに近づいた慶長7年(1602年)唐沢山城主佐野信吉は、佐野庄天命の春日岡(現在の城山公園)に新たな城郭の建設に着手した。嶮難の地である唐沢山から、平坦な地である天命(1633年頃から天明)への移城については従来、江戸大火展望説・山城禁止説等があるが、近世における城郭が臨戦体制的な軍事目的よりも、物流の要衝たる地において、領内経営に当たる政治的目的が優先し造られた事を考慮したとき、信吉もまた当時の趨勢によって移城したと考えられるのである。
信吉は築城工事と平行して天命の町造りも行った。まずは城下の南に広がる台地を碁盤の目状に区画し、街路の突き当たりに寺院を配置した。有事の際、寺院が防塞的役割を担わせる為であった。
当山も町造りの一環として、館野から小屋町木戸外の現在地に移設されたのである。