善導大師像
善導大師は中国唐時代の僧で「浄土三部経」の一つである「観無量寿経」について古今の説を批判して、正しい手本としての解釈を確定する「観無量寿経」4巻を著し、浄土教の称名念仏の思想・信仰を大成した。その思想と実践が後世、法然坊源空による浄土宗成立に大きな影響を与えた。
法然坊源空像
浄土宗の元祖である法然上人は、長承2年(1133年)美作国久米南条稲岡庄(岡山県北東部)に生まれた。15歳で比叡山に登り剃髪受戒した。43歳の春、唐の善導の著作に惹かれ、みずからの思想と行動の規範とし、口称名号の浄土宗を開創する決心を固めて比叡山を下り、一般庶民に説法を行った。ために、旧仏教から嫉視され、たびたび念仏停止の上奏が行われた。法統は浄土宗の他、浄土宗西山派、浄土真宗、時宗に受け継がれている。
祐天上人真筆名号版木
本体の高さ46センチの祐天上人の真筆になる「南無阿弥陀仏」の六文字名号版木である。祐天上人は官営4年(1699年)陸奥国新倉に生まれた。号は明蓮社顕譽。将軍綱吉及び生母桂昌院の帰依を受け、度々江戸城に召されている。念仏布教に専念し、多くの人に名号(南無阿弥陀仏)を授与し生き仏として尊敬された。当山の版木も墨の跡が良く残ることから、多くの人にこの「名号」が授与されたことであろう。
名号板碑と朱印状
板碑形をした石碑がそれで、正面に「南無阿弥陀仏」の名号を刻む。向かって左側面には「歸命無量寿覚 願蓮社笈誓善救和尚 慶安四卯年林鐘十五日 施主敬白」右側面に「歸命無量寿覚 龍王山中興開山道蓮社白譽萬廓」。そして裏面には、徳川三代将軍家光から大雲寺に対する寺領(朱印地)15石余の安堵、及び年貢・賦役などを免除する「朱印状」の写しが刻み込まれている。
下野国安蘇郡小屋町大雲寺領 同所之内 拾五石余事、任先規寄附之訖、全可収納
井寺中竹木諸役等免除、如有未永不有相違者也
慶安二年八月十四日 家光 とある。
これにより当山が、これにより慶安2年(1649年)に将軍家光が朱印状を授与されたことがわかる。しかも「先規に任せ」とあることから、当初の朱印状は、徳川家康又は秀忠唐授与されたと思われる。
徳川幕府は由緒ある格式の高い寺院に対し、将軍の代替わりごとに朱印状を交付していた。寺社では漆塗りの箱に保管して大切に取り扱っていたが、明治維新後、明治政府はこの朱印状を回収し廃棄処分にした。本寺にも空箱のみが残ることになったのである。